真のサバイバルを知るために「極限の民族」を復刻させてください!

能登の震災のことを思う時、私はこの本多勝一氏の渾身のルポ「極限の民族」を読んでいる親和性に、ある種の《神の配材》を感じてしまいました。

高機能は脆弱であること。

いざという時、自分の身を守れるのは、生身のわが身であり、身につけたサバイバル力であるということ。

文明の利器を使う自分であるのは良しとしても、その便利さに頼る自分になってはならないと、肝に銘じました。

こんなおごり高ぶったことを偉そうに綴ると、被災地でものすごい苦難を強いられている多くの方々に非難される、炎上案件になるかもしれません。

極限の地で暮らすのは、被災地での窮乏生活において参考になることのオンパレードです。少なくとも、カナダ・エスキモーの章と、ニューギニア高地人の章は、文明の利器に頼らない、生命力の底力を思い起こさせてくれる内容で、私の「サバイバル魂」に火が点きました。

本多勝一氏は、そんじょそこらのソロキャンプなんぞひれ伏すしかない究極の極限地リポートを、大げさでなく全身全霊、捨て身とも言える長期密着取材によって書き上げました。

エスキモーと共に、同じ生肉を食べ、同じ生活環境で寝起きし、狩りを習い。極寒の地でこれを2か月近く続けるということが、どれほど大変かということを、スマホでだらけきった現代人は、もう想像もつかなくなっているでしょう。

文明の進歩を真っ向から否定するつもりは毛頭ありません。

ただ、その便利さ・快適さは「万人に」必要なの? という疑問は、ここ最近頓についてまわります。

本多氏が、この過酷なルポの取材に、三つの極限地を訪れたのは、1963・64・65年と、隔世の感がある時代です。

また、文章表記も、差別的表現に対する規制が強まる前に書かれたもののため、読む者にとっては不快に感じるワードも散りばめられています。

それでも私は、歴史的背景を知り、文化の相違による摩擦、それが略奪に発展し、紛争を産む原因になっていることをじっくり学ぶのは、人類にとって必要なこととまで思ってしまうのです。

自分の価値観を他人に押し付ける傲慢さを、今一度、振り返って猛省しようと、只今、ひじょうに神妙になっております。

このような素晴らしい本が、公立図書館にきちんと蔵書されている事実は、震災のために悩ましい問題を抱えている私にとって、ひとときの安堵材料になりました。

この本の復刻を、心ある出版社の方に、ぜひお願いしたく存じます。