「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」を読んで思うこと。

この本を読むタイミングが今だったことに、なんというか、運命めいたものを感じています。

私の最愛の叔父が亡くなりました。彼が17歳の時に私が生まれたので、高校生にして「叔父さん」になってしまった《おっちゃん》は、以来、私のことをとてもかわいがってくれました。

「本と語学とドイツについて綴るブログ」と銘打っておきながら、非常に個人的なことを有名人でもないのにグダグダ書いていて、我ながらみっともない《自己顕示欲旺盛人間》だなあと、あきれかえっています。が、よければおつきあいください。

おっちゃんと私の関係は単純で、2人で鱶(フカ)のように大酒を呑み、バカ話をさんざん喋り合って盛り上がる、「世界最強最悪?のコンビ」と勝手に自称しておりました。

その大酒呑みが祟って、おっちゃんは肝硬変になってしまい、アルコールが1滴も飲めない身体になってしまったのは、2人にとって実に痛恨の結果でした。おっちゃんをドイツに連れていって、一緒にビールを呑みまくるという私のもくろみが、はかなく消えてしまいました。

おっちゃんの家族にとって、私という存在は「いたしかゆし」だったと思われます。おっちゃんの妻(伯母)は、姪(私)や甥(私の弟)を可愛がる様子を見て、さぞかし自分の子どもも大事に育ててくれるだろう、と想像していたようです。しかし、実際のおっちゃんは、家族の前で自堕落にお酒を呑み続ける「アル中」でした。生活に困るほどのヒドイ酒量ではなかったものの、子どもたち(私の従兄弟たち)はアルコールを飲まないという意思を固める結果になりました。

最愛の叔父の葬儀に、新型コロナウイルスの影響で、私は参列できません。それが悔しくて悲しくて申し訳なくて、にっくきコロナを心底呪っています。叔母や従兄弟たちは、生前の叔父に対して、私より低い温度で接していたように思われ、葬儀が淡々と行われていることに、一抹の淋しさを禁じ得ないのが、正直な気持ちです。

罪や責任のない私という存在に対してかけてくれた叔父の愛情と、叔父が家族に注ぐべきだった配慮は、今更比較してもしょうがないですし、私の勝手な色眼鏡だろうとも思います。でも、こんな風に書かずにいられないのは、どうしようもない自己顕示欲という性のなせる業なのでしょう。

おっちゃんは正直、弱い人間でした。とても優しくてユーモラスで、商売人や警察やその他自分に対して高圧的にかかってくる人たちに向かっては、痛快なほど軽妙でしかも強気に負かす、魅力的なキャラクターなのに、お酒の誘惑にはあっさりと負けてしまう。自分の子どもたちとの関係について悩む叔父に、私が本を薦めても、面倒くさがって読まず、関係回復のための諸問題から逃げてしまうことも度々でした。

おっちゃんが私にこぼしていた家族に対するグチが、果たしてどれほど痛切だったのか、今となっては訊けなくなりました。コロナ禍で会えなくなり、最後に交わした電話でのやりとりで、ずっと「しんどい」と訴え続けていたおっちゃんの声が蘇り、たくさんの後悔が押し寄せています。もっと優しくしてあげれば良かった。今はただご冥福を祈るばかりです。

この本のタイトルで「選べなかったこと」というのは、ズバリ《親との関係》です。幡野氏の強さ賢さには唸らされます。生きづらさを感じている人達には、琴線に触れる良書と言えます。

岩田店長がオススメしていた本でしたが、納得の1冊でした。最近、時間が取れなくて、なかなか読書に集中できないのですが、悪印象の本は載せない方針を貫いておりまして、ペースダウンは否めません。今後は尚一層、アンテナの感度を上げて、なるべくコンスタントに良書をおすすめできるよう努力する所存ですので、応援よろしくお願いします。