究極のミニマリスト

寂しい生活 稲垣えみ子著

アフロヘアがトレードマークの稲垣えみ子さん。朝日新聞社を退社され、いわゆる「極貧生活」をされている、究極のミニマリスト。「情熱大陸」でその生活ぶりを紹介されたこともあるので、ご存知の方も大勢いらっしゃることでしょう。 

私はそのテレビ番組を観なかったので、動画では存じ上げないのですが、「魂の退社」や、この「寂しい生活」、また、週刊誌 AERA で掲載中のコラムを愛読し、いつも畏れ多く感じているところです。

「モノを持つ」ことは便利かもしれないが、はたしてハッピーなのだろうか? そのモノを買うために、時間を使い、お金を使い、そしてそのために働く。。。なんだか無間地獄に陥っているようです。

私はささやかながら、少しずつ断捨離をしています。服は4分の3くらいを売ったり寄付したりしました。本は500冊くらいを古書店に引き取ってもらいました。まあ、ホントにささやかです。まだまだ身の周りには、モノがあふれています。ミニマリストへの道は、あまりに遠いです。

技術開発に反対するつもりは毛頭ありません。ただ、日本には余りに便利を追及する傾向が強すぎるように思われます。

たとえば、シャワー付きトイレは、OKです。でも蓋が自動的に開いたり、使用後、自動的に流れる機能は本当に必要なのでしょうか? 外国人には「ハイテクトイレ」と好奇の目をもって利用されているようですが。普通に健康な人なら、蓋くらい自分で開けられるでしょう。自分の排泄物(食事中に読んでいる人、ゴメンナサイ)を確認したい人もいると思います。

元々、これらの便利なトイレの機能は、アメリカで開発されたそうです。ただし、利用してもらうターゲットは、いわゆる身体障碍者(差別的な響きがあったら謝ります。もうしわけございません)であって、普通の、手足に不自由がない人に使ってもらうことは、想定していなかったようです。

そのアイデアを「お尻だって洗ってほしい」というセンセーショナルなキャッチフレーズから始まって、どんどんハイテク化した日本のトイレ。私の家のトイレも自動で流れる機能がついていて、使う度に、「自分で流せるわい!」と毒づいています。

なんだか、尾籠な話になりそうなので、この辺で終わりますが、皆さんにも「便利さの功罪」というテーマは、ちょっと頭の隅に入れておいていただければと思います。グレタさんのように、ヨットで移動せよなんて無茶は言いませんから。