「熱源」と文化相対主義

直木賞受賞作「熱源」川越宗一著

川越宗一氏の直木賞受賞作「熱源」を心して読みました。樺太アイヌの闘いと冒険を描く前代未聞の傑作巨編という触れ込みに、最初はお気楽な読み方をしていたのですが、読み進めるうちに、私の「日本語教師」という仕事、特に去年取り組んだ日本語教育能力検定試験で叩きこまれた「文化相対主義」に想いが至りました。

文化相対主義とは、全ての文化は、その環境や歴史的経緯の中で形成されたものであり、複数の文化間に優劣をつけることはできない、という考え方です。

これと対極的にあるのが、エスノセントリズム・自文化中心主義。自分の生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考え、それを基準に他の文化・社会を評価する考え方です。偏見や蔑視・差別の多くはエスノセントリズムに原因があることが多いと言われています。

「熱源」にはヨーロッパ知識人の超上から目線の「暴言」が見え隠れし、コロナ禍で浮き彫りになった、欧米人のアジア人に対する差別意識が鮮明に頭をよぎりました。

文化相対主義と関連して、言語相対主義という考え方もあります。言語間の多様性を認め、言語間に価値の優劣はない、とするものです。

「言語は人間の認識に影響を与える思考の習性を提供する」というサピア・ウォーフの仮説についても説明してみましょう。使う言語が違うと、言語の話し手が持つ外界認識も異なる、ということです。

日本語は本来、和語(大和言葉)しかなく、文字もありませんでした。中国から多くの文化が流入し、漢字を取り入れ、さらにそこから平仮名とカタカナを編みだし、以後、外来語についてはカタカナ表記するという技も生まれました。

日本人の器用さは、例えば「台所・厨房・キッチン」と本来同じ目的で使われる場所を全く違う言葉で表し、それぞれにニュアンスを与えて使い分けているところに如実に出ています。ドイツ語には煮炊きをする場所と言えば 「Küche キュッヒェ」という言葉しかなく、また、キュッヒェにはさらに料理・料理法などの意味も含まれています。

同じことを違う言葉で表現できることを、豊かと考えるか、面倒ととらえるか。これもまた価値観の違いと言えるでしょう。

私は日本語は「柔軟な言語」ととらえており、それは根本には日本人のアニミズム信仰が深く関わっているとにらんでいます。八百万の神様をみな等しく尊ぶポリシーは、世の中に存在する様々な文化や思考や宗教などを受け入れやすい体質となって、何もかもどんどん呑み込んでしまう。今までなかった物や概念はカタカナ表記という得意の手段で取り込み、まるで日本文化の亜流であるかのように使いこなす。

早いと速い、熱いと暑いと厚い、さらに図る・計る・測る・量る・諮る・謀る。発音のバリエーションが少ない日本語は、漢字で意味を表しますが、これらの形容詞や動詞は中国からのいわゆる外来語ではなく、大和言葉からきていると考えられるので、かつては一つの言葉にたくさんの意味が含まれていた現れと言えるでしょう。

日本語を教えるにあたり、日本の文化や習慣、日本人的な考え方なども授業で教えることになるのですが、学習者はほとんどが発展途上国からの留学生で、おしつけがましくなっていないか心配です。彼らは日本でさらに学び・稼ぎ・成功を目指すのですが、理解のない経営者や指導者から蔑まれたり馬鹿にされたりすることも少なからずあるようです。

彼らがそんな日本で屈辱的な目に遭わないために、言葉がうまくなって、日本で誤解を招かないように、文化・習慣も身につけてほしい、という心づもりなのですが、果たして自分は尊大になっていないだろうか? 時々自問しています。

文化は各土地の風土や気候(時には災害)に適したものです。それぞれが違ってあたりまえであり、優劣をつけるという考えこそが間違っているのではないでしょうか。呪術的に感じられる思考を劣っているとみなすのは、非常に傲慢な見解です。科学的なことは進んだ文明とみなされていますが、たかだか数世紀しか経っていない知識。このコロナ禍も文明の発展(とここでは敢えてこの言葉を使いますが)が悲惨さの度合いを深めたと言えるかもしれません。

ステイホーム、なんだかご主人さまに命令されている犬になったような、屈辱的な気分を味わわせる言葉として、私には響きます。もちろん、経済云々より今は命が大事と心得、自宅でおとなしくしていることに、やぶさかではありませんが。

経済の発展がインフラの未発達な国々を幸せにする唯一の方法という考えが、ゆがんだものであるということを、新型コロナウイルスは暗に示しているような気がしてなりません。テロ行為など、暴力的な手段で、開発者の手を止めようというのは、確かに首をかしげます。でも、自然をあるがままの形で残しておきたいという気持ちに、経済優先主義という価値観の押し付けで、大事な地球をただ破壊に向かわせていると考えているのは、私だけではないと思います。

大きな流れを止めるための神様からの試練と警告。それを受けとめることで、コロナ禍を脱する解決策が見つかると考えるのは、未熟で浅はかで思慮に欠けますか? どなたか答えをください。