在宅介護、自宅で看取り①

お恥ずかしい写真ですが・・・お骨とお花など

今回は、大きくテーマがずれてしまいますが、父の最後について、綴っておきたいと思います。

父は10月20日午後10時58分に、私が一人で見送りました。85歳。日本人男性の平均寿命は超えており、なにしろ唾も飲みこめない状態になっていましたから、見守っていた母と私も、またおそらく本人にとっても、悔いのない最期だったと感じています。

父がアルツハイマー型認知症を発症したのは、何年前だったか。少しずつ物忘れが多くなり、また、尿意のコントロールも難しくなってきました。プライドの高い人だったので、特にオムツを嫌がり、何度も失敗しては、母や私に怒られ嫌がられ。

そんな父が、抵抗なくオムツを穿くようになったのは確か2017年。物忘れどころか、自分の子どもの数も間違えるようになり、年齢も、ちょうど10歳若く言うようになりました。多分、本人は、その年齢だと思いこんでいたのでしょう。

足元は、かなり弱ってはいたものの、トイレまで歩くことができ、便意のコントロールはできていたので、その辺りは助かっていました。ただ、尿意については制御不能で、オムツを穿き替えている最中に漏らすこともあり、母の苦労は絶えませんでした。

暴力や暴言、妄想などもなく、お地蔵さんのようにニコニコ座っているか、寝ている状態になっていたので、いろんなケースと比較すれば、楽な介護だったと言えるのでしょう。

デイサービスにも週に2~3度通っていましたが、いやがることなく、迎えのマイクロバスに乗り、夕方には機嫌良く帰ってきました。

デイサービスの帰りのマイクロバスに乗る際、行方不明になったことがありました。

スタッフから電話がかかり、父がいなくなったので、警察にも連絡して探している、というのです。幸い私も自宅におり、母がスクーターで探しに行き、私は自宅待機で電話連絡に備えました。

しばらくすると、インターホンが鳴り、出てみると、なんと刑事さんが二人。ちょうどドラマ「相棒」の初代のように、一人がスーツ姿、もう一人はラフな格好で、詳しい話を聞きたいとのこと。

家に招き入れ、父の特徴を根ほり葉ほり聞かれました。髪型の説明で、私が、

サザエさんの波平さんみたいな頭、

と説明すると、調書に”波平さんみたいな髪型”とそのまま書き込まれたのには、笑いそうになりました。私は「父は足腰が弱いので、それほど遠くない、座り心地のいい場所に、猫のように座っていると思います」と伝え、その旨、刑事さんが電話すると、しばらくして、無事みつかったとの連絡が入り、一件落着。やはり、私の推測通りでした。

私や母は、父の徘徊には懐疑的でしたが、警察としては、少しでもリスクを減らしておきたいという思惑があるのでしょう。徘徊ネットワークなるものに連絡し、父の靴や杖などに、地名と番号の入ったシールを貼ることになりました。また、キッズ携帯を持たせ(父は携帯を一切持っていなかったのです)GPS機能で探せるようにもしました。

父はどんどん言葉が減っていきました。必要最低限のことしかしゃべらず、あとは身振り手振り。なぜしゃべらないのかと尋ねると「めんどくさい」と答えるのです。

しゃべらないことは、認知症が進むばかりでなく、口の中や喉周りの筋肉が衰え、誤嚥につながります。なるべく話をさせるように仕向けてくれるデイサービスに鞍替えすることにしたのですが、構われるのが嫌いな父は、次第にデイサービスへ行くのを嫌がるようになり、食も細くなっていきました。

ついにはデイへの通所はあきらめ、自宅で訪問看護の方から、しゃべる訓練を週に1度受けることに。

”パタカラ”という子音を発声する訓練。名前を言わせたり、童謡を唄わせたり、毎回1時間のトレーニングが数回されました。その際、痰がつまっているという聴診器での診断があり、この頃から誤嚥が進んでいたのでしょう。食事中、よく咳き込み、母と私は、かなり不快を感じながら、テーブルを共にしていました。

あの時もっと優しくしていれば。私たちは、父のテーブルマナーの悪さに、つい、「咳をするなら、手を当てて」などと、厳しく訴えていたのです。思い起こせば、あれは誤嚥を防ぐ本能的な反応だったのに。

8月9日、食は相変わらず進まず、甘いものが好きなので、せめて水ようかんをと勧めると、なんとか食べてくれました。私は大好きな図書館に一刻も早く行きたかったので、水ようかんの完食を見届けたところで、車で出かけました。運転中、携帯が鳴り、目的地に着いたところで確認すると、母から。折り返し電話したら、「父の様子がおかしくなったので、救急車を呼んで今、待っているから、大至急帰ってきて」と叫ぶような声でした。

とんぼ返りして、自宅に戻り、家の施錠状態を確認しながら、母に電話すると、認知症の判定をしてもらった所と同じ病院に搬送されたというので、急行。

着いて母に合流し、しばらく待つと、ドクターに呼ばれました。

「重篤な肺炎です」

酸素飽和度がかなり下がっていること。今後の対応の仕方についての確認があり、まだまともだった頃に、父に確認していたので、①無理な蘇生はしない、②口から食べられなくなったら無理な延命はしない、という本人の意思を伝えました。

翌日、父が服用していた薬を届けましたが、コロナの影響で、面会はできず。8月12日、担当となった医師から、もう一度、父の意思を聞かれ、胃瘻はしないなどの確認をし、とにかく肺炎を治すこと、口から食べられるようにすること、できれば歩行訓練も(寝たきりになると、そのまま動けなくなるので)してほしい、と家族の希望を伝えました。まだ会わせたい人たちがいる、最期は自宅で過ごさせたいと。コロナがなかったら、事情は違ったかもしれません。

オムツなどの差し入れが定期的に必要だったので、時々、病院には通うことに。また、その病院は治療が専門で、リハビリのためには転院する必要があり、次の病院選び、そこでの打ち合わせ等をこなし、肺がきれいになった時点で、8月29日に転院。介護タクシーで寝たまま、父は運ばれました。

とにかく唾も飲みこめない状態になった父は、転院先でも何度か肺炎を起こしました。その合間をぬって、痰を吸いこむ器械の操作を母子二人で習うことに。最初だけは人形でしたが、父の身体を使って実際に吸痰をする練習を都合3回やりました。転院先はコロナへの警戒が最初の病院よりずっと厳しかったのですが、事情が事情なので、訓練の時は個室に父が移され、他にも体位交換・オムツ交換など、自宅介護の基本を仕込まれました。

吸痰は昼夜を問わず2時間おき、と言われており、退院までのカウントダウンが始まりました。部屋を模様替えし、介護用ベッドとマットレス、吸痰機のレンタル。訪問医療の主治医の確保。訪問看護は引き続き、しゃべるトレーニングをしていただいたセンターに依頼しました。

10月15日午後に、また寝たままの移動で自宅へ。弟も関西からかけつけ、玄関からベッドまで父を運ぶのに、大いに助けとなりました。すぐに看護師が来てくれて、状態をチェック。この時、吸痰は呼吸がゼロゼロ言いだした時だけで大丈夫と言われ、かなり不安が減りました。主治医も来てくださり、吸痰の件もOKサイン。いよいよ自宅介護です。(②へ続く)