「察する」という文化と日本語の関係

外国人留学生が日本語を学ぶための教科書がこれ

のっけから難しそうな話題ですね。

ドイツに住んでいた時、知人がこんなエピソードを披露しました。知人(女性)はフレンチホルン奏者で、音楽の勉強のためケルンのシェアハウスで暮らしていたのですが・・・

「隣のドイツ人のCDの音がうるさくて。腹が立ったから、ミュート(管楽器のベルの部分に挿入して音を変えたり、小さくしたりする器具)なしで、ガンガン練習してやったの。これぐらい聞こえているのよって分からせてやろうと思って。でも、ボリューム下げてくれないのよね」

彼女が行ったのは、自分も大きな音を出すことで、相手に「察してほしい」という他人任せの行為です。察する・空気を読むなどは、日本人に求められる資質ですが、これを外国人に求めるのは、無理があるでしょう。

日本語の文章には、主語がないことがよくあります。例えば

あの日に見た青い空を決して忘れない。

という文を読んだら、忘れないのは「わたし」だ、ということを、日本人ならすぐ察します。

専門用語を使うと、感覚形容詞と感情形容詞には「人称制限がある」。

私は痛い、とか、私は痒い、と言えますが、

彼は痒い、とか、彼女は哀しい、は「変」です。正しくは

彼は痒そうだ、とか、彼女は哀しがっている

となります。同様に、動詞にも「僕は思う」「俺は~したい」は言えるけど「彼は思っているらしい」とか「彼女は~したいようだ」という風に、推測の形にしないと、おかしな文章になってしまう動詞があります。

このように、人称が限定されてしまう述語については、主語を省略することが多く、読み手に主語を「察して」もらう、というのが日本語にはよくあります。

グーグル翻訳などで、日本語を上記のように「主語なし」で書いたものを訳してもらおうとすると、翻訳機は悩んでしまって、時々とんでもない違訳をすることがあるのはこのためです。

日本人同志なら楽な、お互いを察する、という文化ですが、今後は外国人が増え、そうも行かなくなってくるでしょう。

日本語がまだ不自由な外国人のために「察してあげる」のは親切でいいことですが、だからと言って、こちらの意図を「察してもらう」のはムシのいいはなしとなります。

折しもオリンピックイヤーで異文化の人たちが大勢やってきそうな2020年。空気を読むのではなく、お互いをよく見て、誤解のない国際親善が民間からも広がっていけば良いなあと、心から願っています。