外国語を身につけるための日本語レッスン

語学の極意はまず母語を鍛えること。三森ゆりかさん、同感です。

ドイツへ留学する時、私はある決心をしていました。それは「通訳のプロになる」というもの。1年間みっちりドイツ語を学べば、きっと大丈夫、という私の目論見は大きくはずれ、私は大いに落ち込みました。ドイツ人男性と日本人女性の間に生まれたバイリンガルがかなり増えており、日独の両言語をそれはそれは流暢にしゃべる彼らを目の当たりにした時のショックは相当なものでした。

日本語教育のための勉強をしているうちに、バイリンガルの問題点なども見えてきて、今ではそれほどコンプレックスは持っていません。ただ、通訳という仕事は、自分には向いていないということは、さらに強く自覚するようになりました。察する文化の日本と、徹底的に説明を要するドイツでは、あまりに文化的背景に違いがあり、融通の利かない頭の固い私には、手に負えない職業だと思い知らされたのです。

「外国語を身につけるための日本語レッスン」にも通訳の仕事の難しさを表した記述があります。

”それでどうなの?”という質問。ある音楽家が来日したミュージシャンに尋ねてほしいと依頼するのですが、よくよく掘り下げてみると、インタビューしている質問者自身が、何を知りたいのか分かっていないのです。こんな時ベテランの通訳は、何を質問したいのか、その意図を適当に汲み取って、外国人の答えやすいような具体的な表現に変えるのだそう。そんな芸当は私には「無理」です。

ホテルのバスルームに書かれているメッセージも、お国柄が出る。というか、日本語の表記は他国のものと比較すると具体性に欠けます。これは私も旅行先で読んだことがあるので、ストンと腑に落ちました。実例をあげましょう。

日本語―少しでも自然環境を保護するため

外国語―世界各地のホテルで、毎日何トンものタオルが不必要に洗濯されています。そして大量の洗濯洗剤が必要となり、水資源の汚染が作りだされています・・・

これは、タオル類の洗濯する量を、特に連泊するゲストの方に、減らす協力をお願いする文面の一部です。日本人は、長々と説明されるのを嫌う傾向があるのでしょう。私は英語とドイツ語の表記を実際に読みましたが、子供でも「はい、協力します」と賛同してくれそうな分かりやすい表現で、好ましく思いました。

「そんなこと、言わなくてもわかるでしょ」という暗黙の了解というのも、日本には多い気がします。在独中、日系企業で働いていた時、”椅子事件”が勃発しました。社員の半数を占める女性事務員が、労働環境の改善を訴え、執務に一番影響する椅子を快適なものに変えてほしいと、社長に直談判してきたのです。

総勢25人ほどのこじんまりとした会社でしたが、1脚5万円ほどする高品質のイスを12台購入することになり、日本人の社長は「僕の皮張りの椅子でさえ、3万円程度なんだけどなあ」と拗ねていたのがなんとも哀愁が漂っていて・・・

この椅子選びが難航したのです。○○工学を取り入れたハイテクなんちゃらのオフィス家具云々のカタログを取り寄せ、ヨーロピアンの女性陣がああでもない・こうでもない、と姦しく好き放題を言い、1脚10万円近いのが欲しいとの仰せ。しかし、いくらなんでもそれは贅沢過ぎるし、予算も超えている。

日本人同志なら「常識で考えて、適当な相場のものを選びなさい」で落ち着くところが、この常套句が通用せず、きちんと一から説明し説得し納得させた上で、ようやくなんとか決着したのでした。

私は古いのでいいと遠慮したのですが、あなただけみんなと違うのはダメ、となぜか日本風横並びがヨーロピアンにもあったようで、届いた椅子に座りながら「社長、すみません」と、しばらく肩身が狭かったです。確かに座り心地は良く、長時間パソコンに集中しても、肩こりにならなくなりましたが。

この「常識」というのが曲者ですね。日本人の常識が、ドイツではことごとく通用しない。いちいちきちんと説明するというのに慣れていない上、不自由な外国語で話すというハンディもあり、ヨーロピアンから何かが訴求されるたびに、日本人幹部は戦々恐々としていました。

ドメスティックに日本国内だけで日本語だけを使って暮らす! というなら、構いませんが、これだけ世の中インターナショナルになってきた昨今、日本語をそのまま翻訳すると、おかしなことになる、くらいの知識は身につけておきたいものです。

昔のCMに、私はコーヒー(を注文する)を I am a coffee と言ってしまって恥をかくというのがありましたが、あれは、今考えると名作でしたね。

外国語の学習をする前に、基本の母語を鍛えましょう、という啓発をしているこの本。改めて反省させられた一冊でした。